馬淵史郎(まぶち・しろう)監督の子供は娘・息子のどっち?妻嫁の名前は智子さんで明徳義塾の英語教師をしているって本当?など家族に関する話題を中心にお届けしていきます。
洗練されたプレーをする野球選手を次々に輩出している高校野球界の名将・馬淵史郎監督のプロフィールの特定にチャレンジしたところ、現役時代はなかなか芽が出なかったものの、指導者に転身してから急に才能を開花させたことが分かりました。
馬淵史郎のプロフィール
現役時代の成績は目立たなかった馬淵史郎監督ですけど、大学卒業直後に実業団チームの指導者として活躍したことがプロフィール情報の発掘で判明していて、2021年からはU-18侍ジャパンの代表監督を務めています。
プロフィール
名前 | 馬淵史郎(まぶち・しろう) |
生年月日 | 1955年11月28日 |
年齢 | 67歳 |
出身地 | 愛媛県八幡浜市 |
学歴 | 三瓶高校→拓殖大学 |
ポジション | 内野手 |
職業 | 教師(社会科)、明徳義塾野球部監督 |
甲子園通算54勝を挙げていて、初戦の連勝記録「20」という脅威的な数字を叩き出している馬淵史郎監督ではありますが、意外にも現役時代は目立った活躍をしていなかったようで、三瓶高校時代は甲子園まで勝ち進むことができませんでした。
ただ、三瓶高校から拓殖大学へと進んだ後も野球を続けていて、拓殖大学卒業後に松山物産や松山ガスの野球部部長を歴任するなど、若いうちから指導者としての才能の高さをフルに発揮していたそうです。
経歴
・阿部企業野球部監督(1983年)
・社会科の高校教員免許試験に合格(1987年)
・明徳義塾野球部監督就任(1990年)
・甲子園初出場は1991年の夏(甲子園初勝利の相手は市岐阜商)
・夏の甲子園準決勝で横浜高校に逆転負け(1998年)
・夏の甲子園初優勝(2002年)
・部員の不祥事発覚で監督辞任(2005年)
・高野連審議会で監督復帰が認められる(2006年)
・国体硬式野球の部で優勝(2014年)
・U-18侍ジャパン代表監督に就任(2021年)
1986年に阿部企業という実業団チームを日本選手権準優勝に導いたことが高く評価され、馬淵史郎監督は1990年から四国地区の名門校・明徳義塾野球部で指揮を執ることになりました。
2005年に野球部員のスキャンダルが報じられたことで辞任に追い込まれた馬淵史郎監督でしたが、現場復帰を望む声が強かったこともあり、翌2006年8月に監督としてグラウンドに戻り、甲子園の常連校として申し分ない結果を残しています。
2021年からU-18侍ジャパンを指揮していて、2023年8月末開幕の国際大会で世界一奪取が期待されている馬淵史郎監督に子供がいるのかどうかを調べてみたところ、娘の存在は確認できなかったものの、息子の馬淵烈さんは拓殖大学野球部の監督を務めていることが分かりました。
馬淵史郎の子供(娘・息子)は?
子供は息子の馬淵烈さん(拓殖大学野球部監督)だけで、馬淵史郎監督には娘がおらず、家族構成は3人の可能性が高まっています。
・子供は1人だけで娘はいない
・息子の名前は「馬淵烈(まぶち・つよし)」
・明徳義塾野球部出身で現在は拓殖大学の監督を務める
2020年から拓殖大学野球部の監督を務めている息子・馬淵烈さんは父・馬淵史郎監督が在籍している明徳義塾を卒業していて、高校時代は名門野球部のキャプテン兼エース投手として目覚ましい活躍を見せていました。
社会人野球のシティライト岡山で選手として経験を積んだ後、息子の馬淵烈さんは出身校の拓殖大学野球部コーチを5年間務めた上で満を持して監督に就任しています。
ちなみに、ネット上では馬淵史郎監督に娘がいる?と噂されているようですが、娘の存在を確認できる証拠は1つも出てきていないので、単なる噂話だったと解釈した方が良さそうですね。
続いては、馬淵史郎監督の妻に関する情報をかき集めてみたところ、嫁の名前は智子さんで、明徳義塾の英語教師を務めていることが分かりました。
馬淵史郎の妻嫁は智子で英語教師!
妻・智子さんは明徳義塾の現役英語教師をしているようですけど、野球のルールは全く把握していないことから、自宅では野球の話をほとんどしていない可能性が高い一方、馬淵史郎監督は70歳になったら現場を離れて嫁と日本一周旅行を企画していることが判明しました。
・妻の名前は「馬淵智子(まぶち・ともこ)」
・明徳義塾の英語の先生として活躍中
・嫁は野球のルールをほとんど知らない
・70歳で監督を辞め、妻とキャンピングカーで旅をするのが夢
顔画像など詳しいプロフィールは分かっていない妻・智子さんですが、夫の馬淵史郎監督と同じ明徳義塾高校の教師として働いているそうで、担当科目は英語とのこと。
嫁・智子さんは複雑な野球のルールを全く知らないことで有名ですけど、名采配を連発する馬淵史郎監督の妻でありながら野球の知識がないことを踏まえると、馬淵史郎監督は自宅では野球の細かい話をせず、家族サービスに徹しているみたいですね。
また、馬淵史郎監督は70歳を迎えたところで明徳義塾野球部監督を辞めることを宣言していて、自前のキャンピングカーで妻・智子さんと一緒に日本一周旅行をしたい!という夢を持っていることも分かっています。
最後に、馬淵史郎監督が高校野球の名将と騒がれるルーツを探してみたところ、2002年に夏の甲子園で全国制覇を果たしただけでなく、強打者・松井秀喜さんへの5打席連続敬遠の奇策を繰り出し、チームを勝利に導いたことが理由になっていました。
馬淵史郎が高校野球の名将と言われる理由
なぜ馬淵史郎監督が高校野球の名将と言われるのかというと、2002年夏の甲子園で全国制覇を決めたことはもちろん、大舞台で勝ち切るために松井秀喜さん(星稜高校)に対して5打席連続敬遠という驚きの策に出た点が理由として挙げられます。
2002年夏の甲子園で優勝
・14度目の出場となった2022年夏の甲子園で見事優勝
・森岡良介(ヤクルトコーチ)などハイレベルな選手を輩出
・部員全員の名前が書きこまれたウイニングボールは馬淵家の家宝に
甲子園の常連校でありながら、上位進出を果たすケースが少なかった明徳義塾でしたが、森岡良介さんなど実力のある選手が集結した2002年夏の甲子園で悲願の初優勝を果たしています。
試合後の取材ではいつも冷静な振る舞いを見せている馬淵史郎監督ですけど、初優勝した直後のインタビューで感極まる場面があり、高校野球ファンの涙腺を緩ませる形になりました。
ちなみに、甲子園初優勝を決めた時のウイニングボールは今現在も馬淵史郎監督の自宅に家宝として飾ってあるそうで、当時の野球部員全員の名前が書き込まれているそうです。
松井秀喜5打席連続敬遠
・1992年夏の甲子園で星稜高校(石川)と対戦
・相手の主砲だった松井秀喜を徹底マークし、チームを勝利に導く
・5打席連続敬遠の奇策は物議を醸したが、勝利を最優先する采配を披露
馬淵史郎監督の名前が全国区になったのは1992年夏の甲子園で、対戦相手の星稜高校の主軸だった松井秀喜さん(巨人・ヤンキースなど)を5打席続けて敬遠する、という奇策を繰り出した時です。
SNS全盛の現代なら袋叩きになっていたでしょうけど、1992年当時の世間も松井秀喜さんとの勝負を完全に避ける、という手法に異を唱える人が続出し、馬淵史郎監督への批判も噴出しました。
ただ、馬淵史郎監督は松井秀喜さんの打力を認めた上での作戦だったことを明かしていて、敬遠で出塁させたとしても他の打者を打ち取ればいい、というクレバーな戦法に打って出た結果、3-2で星稜高校に勝ち、明徳義塾不利の下馬評を覆すことに成功しています。
まとめ
馬淵史郎監督(明徳義塾)の子供は1人だけで娘の存在は確認できませんでしたが、息子の馬淵烈さんは拓殖大学野球部の監督に抜てきされ、偉大な父親の背中を負い続けています。
妻・智子さんも明徳義塾で英語教師をしていますけど、馬淵史郎監督は70歳になったところで指導者生活にピリオドを打つことを決めていて、監督を辞めた後には嫁と2人で日本一周旅行に出ることを明らかにしていました。