小菅勲(こすげ・いさお)監督率いる土浦日大野球部が大躍進していますので、経歴wikiはもちろん、指導方法や取手二高時代の活躍ぶりなど色々な話題を徹底深掘りしていきます。
超高校級の選手を数多く抱えているスター軍団ではなく、メンバーの層の厚さと勝負勘の鋭さで旋風を巻き起こしている土浦日大・小菅勲監督のwikiプロフィールをチェックしていきましょう。
小菅勲監督のwikiプロフィール
出身地は茨城県常総市の小菅勲監督のwikiプロフィールにつながる情報はそこまで多くありませんが、関連性が薄かった土浦日大野球部の監督を2016年から務め、チームの黄金期を築いています。
名前 | 小菅勲(こすげ・いさお) |
生年月日 | 1966年 |
年齢 | 56歳 |
出身地 | 茨城県常総市 |
仙台育英・須江航監督や慶應・森林貴彦監督のような選手以上に目立つ存在じゃないので、wikiプロフィールの詳細を特定していくのはかなり難しい状況です。
基本に忠実な試合運びで土浦日大野球部を黄金期に導きつつある小菅勲監督ですが、2016年にチームへとやってきた直後は周囲から冷たい目で見られていたそうで、母校ではない土浦日大の監督に抜てきされたことに異を唱える関係者もいたみたいですね。
でも、監督就任後に夏の甲子園へ3度出場し、チーム力向上に寄与している小菅勲監督の実力を認める声がかなり多くなったことを受け、どんな経歴の人物なのかを知りたい野球ファンが増えていますから、これまでの小菅勲監督の足跡を振り返っていきましょう。
小菅勲監督の経歴
茨城県立伊奈高校で初めて野球部監督に就任した後、下妻二高校時代に初めて甲子園出場を果たした小菅勲監督は2016年から土浦日大へとやってきています。
伊奈高校野球部監督(1993年~1999年)
下妻二高校野球部監督(2000年~2015年)
土浦日大高校野球部監督(2016年~)
小菅勲監督の指導者としてのキャリアがスタートしたのは茨城県立伊奈高校野球部の監督に就任した1993年からで、監督生活30年の節目を迎えた2023年に土浦日大を夏の甲子園出場に導きました。
伊奈高校時代は甲子園に出ることはできませんでしたが、2番目の赴任先となった下妻二高校で2度の甲子園出場(2004年夏・2009年春)を果たしています。
下妻二高校での活動は2015年でピリオドを打ち、低迷期に突入していた土浦日大高校の立て直しを図るべく、2016年に満を持して野球部監督に就任し、監督2年目の2017年夏に31年ぶりの甲子園出場を決め、大喝采を浴びました。
常総学院や明秀日立など、茨城県内には野球強豪校がたくさん存在していますけど、2023年8月時点で通算5回の甲子園出場(夏4回・春1回)を決めている小菅勲監督は名将の域に達したと言っても過言ではないでしょう。
続いては、小菅勲監督の指導方法がどんな感じなのかをリサーチしたところ、恩師の木内幸男監督が築き上げた「木内野球」の継承者で、選手の特徴を深く理解することに重きを置いていることが分かりました。
小菅勲監督の指導方法
指導方法の起源となったのは高校時代の恩師でもある木内幸男監督で、周囲が驚くような奇策を打ち出すため、小菅勲監督は選手たちの特徴や個性を把握することを最優先にしています。
・指導方法のルーツは恩師の木内幸男監督
・選手たちの個性を理解し、基礎を疎かにしない野球を展開
・論理的アプローチを欠かさない「木内野球」を継承
高校時代の恩師で、取手二高や常総学院を率いて甲子園優勝4回(夏3回・春1回)を記録しただけでなく、通算40勝の大台にも達している木内幸男監督が小菅勲監督の指導方法の起源になっています。
木内幸男監督というと、予期せぬ戦法を次々に繰り出す「木内マジック」と呼ばれる名采配で知られていますが、小菅勲監督は木内幸男監督が論理的アプローチで最適なサインを打ち出していることを熟知していて、「木内野球」の継承を最大の目的にしているとのこと。
さらに、木内幸男監督は各選手の個性や特徴を事前に把握するだけでなく、基礎を疎かにしない野球を徹底させていたため、小菅勲監督も木内幸男監督の手法を参考にしながら、現代野球にフィットする「新・木内野球」の構築に挑んでいるのです。
木内幸男監督の背中を追いながら、自分なりの野球を見出そうとしている小菅勲監督の学歴を調査していくと、法政大学に進学したものの、野球への未練を断ち切れない状況で町役場に就職していたことが判明しました。
小菅勲監督の学歴!大学時代
大学時代の小菅勲監督は法政大学の野球部に所属するなど、申し分ない学歴の持ち主なのですが、大学卒業後に町役場へと就職したものの、野球への情熱が収まることはなく、指導者の道を目指すことになりました。
・高校卒業後に法政大学へと進学
・町役場に就職したが、ソフトボール大会の勝利後に野球への思いが強まる
・常総学院のコーチを務めながら教員免許取得のための勉強をしていた
取手二高から法政大学という学歴の小菅勲監督ですけど、大学時代まで野球選手として活躍していたものの、卒業後に現役引退を決意し、町役場に就職していました。
ただ、ソフトボール大会に出場した時、勝利の味を今一度思い起こし、野球に対する思いがこれまで以上に強くなった中、恩師・木内幸男監督率いる常総学院野球部のコーチに転身しています。
教員免許取得のための勉強をしながら、名門野球部のコーチとして多忙な日々を過ごしていた小菅勲監督は苦労人の部類に入るかもしれませんね。
最後に、小菅勲監督の取手二高時代の活躍ぶりを振り返っていくと、KKコンビが在籍していたPL学園と1984年夏の甲子園決勝で対戦し、見事勝利したことが分かりました。
小菅勲監督の取手二高時代の活躍ぶりは?
取手二高時代の小菅勲監督は右投げ左打ちの三塁手で、コンパクトな打撃と堅実な守備を持ち味にしていて、全国制覇を果たした1984年夏の甲子園では出場した全試合で安打を記録しました。
・取手二高時代は右投げ左打ちの三塁手として活躍
・コンパクトなスイングで1984年夏の甲子園全試合でヒット
・KKコンビ(桑田真澄・清原和博)擁するPL学園を決勝で下す
三塁手のレギュラーであることを示す背番号5を任された1984年夏の甲子園では取手二高が快進撃をしていて、小菅勲監督もチームの勢いに乗る形で全試合安打をマークしています。
決勝戦の相手は桑田真澄さん・清原和博さんのKKコンビなどオールスター級の選手がそろっていたPL学園(大阪)でしたが、強敵相手でも物怖じしない試合運びを見せ、全国制覇を成し遂げました。
まとめ
小菅勲監督(土浦日大)は法政大学卒業後に町役場に就職し、指導方法の起源でもある木内幸男監督の常総学院コーチへと転身する、という経歴wikiの持ち主です。
KKコンビがいたPL学園を倒した取手二高時代の活躍ぶりにも関心が集まっている小菅勲監督は派手さこそないものの、堅調な試合運びをしながら意表を突いた作戦を展開する「新・木内野球」を構築させ、夏の甲子園2023でも大躍進していました。